「なぜ人は勉強しなければならないのか」
子供であった時、誰しも一度は疑問に思うことではないだろうか。
この勉強がいつ役に立つのか、何の役に立つのか、微分積分など大人でも使わないではないか。
疑問に思って大人に聞いても納得のいく答えはもらえない。
そのような経験を誰でもしているだろう。
水滸伝の登場人物の中にも学問は自分には必要ない、自分とは無縁のものだと思っている登場人物がいる。彼の名前は鮑旭。8歳で両親と死に別れ、生きるために物を盗み、生きるために人を殺した。
彼は「物を盗んで殺されるならば、それは仕方がないこと。殺されてもいいから盗んでもいい」と思っている。
礼儀作法を教える者は誰もおらず、読み書きもできず、ただ生きるために物を盗んで人を殺す。彼は人間の姿をした獣だと他人から言われて生きてきた。善悪が何か、それは彼にとってはどうでもいいことなのだ。乱暴な言葉で話すから誰からも疎んじられ、人として話を聞いてもらえない。
だから彼は生きるためには人から食べ物や金銭を盗まねばならない。生きられないからそうするのだ。
水滸伝を読んでいると、突然このような身につまされる出来事に遭遇する。
Twitterなどで平気で人をけなす人や暴言を吐く人、誹謗中傷をする人、急にため口で話しかける人を良く見かけて、どうして最低限の礼儀も守れないのか?と疑問に思うことがある。
しかし、そもそも礼儀作法がちゃんとしていて、善悪の区別がつく人は
その人がきちんと教育がなされた人なのだということに気づいた。
何らかの事情が伴い、誰もが享受できるはずの教育を受けられない子供がいる。
それを鮑旭を通して見ているような気がする。
今の日本にはアウトサイダーなことをしてしか、お金を稼げない若者が増えている。ニュースを見れば呆れるような稚拙な犯罪を起こし、大きなニュースとして報じられている。少し頭で考えれば簡単に警察に捕まることは明白だ。自分の取り分は少なく、損しかしないであろうこともわかるはずである。否、わからないのはおかしいと決めつけている。
ところがどうだ。
毎日のように20歳に満たない若者が白昼に強盗を引き起こし、あっという間に逮捕されている。命令した人間は捕まらない。搾取されると知っていて歓楽街の街路に立ち、消費されると分かっていて、見知らぬ男に体を売る少女がいる。なぜ、こんなことが起きるのか。
鮑旭と同じように学ぶ機会がなかったのか、生きるために犯罪を犯すしかなかったのか。生きるために体を売らなければならないのか。
理由はわからないが、確実に日本の若者にあらゆる貧困の波が押し寄せているのを感じる。
本来はしなくても生きていけるはずなのに、犯罪に手を染めるところまで追いつめられている。
自分を大切にしたいのに、自分からそれを捨てる。
世の中の空気が悪いという事実を、その事象から突き付けられている気がする。
水滸伝の世界も同じような空気だ。
皇帝が己の欲のために散財し、国の財政を圧迫する。官吏の不正は横行し、富めるものだけ富み、貧しいものはもっと貧しくなる。賄賂なしでは物の売り買いは成り立たず、正しい意見は黙殺され、無実の罪で投獄される。
令和の今と何が違うのだろうか。同じではないか。
考える力があれば、自分で稼ぐ知恵があれば、こんな危ないことはしないで済む。他人や自分を傷つけずに生きることができる。だからこそ「知恵」が必要なのだ。
鮑旭はその後、生涯の師となる王進と出会い、初めて人間らしい生活をすることになる。礼儀作法を王進の母に教えられ、挨拶の仕方、字の読み書き、作物の育て方、武術を教えられる。
言葉遣いを覚え、字が書けるようになった鮑旭は見違えるほどきちんとした人物へと成長を遂げていく。
そんな彼を見ていて思う。
人はその尊厳を守るために、学と礼が必要なのだ。
自分の頭で物を考えることができ、人に礼を尽くすことで人として扱ってもらえる。
善悪の区別もその学びの中から判断できるようになる。
自分を守り、自分の足で立つために学問が必要で、礼儀作法が必要なのだ。
学ぶことが辛い、と感じるときは鮑旭のことを思い出そう。
私の尊厳を守れるのは私しかいない。それを助けるのは今まで学んできたこと、経験してきたことだ。関わってきた人たちの数なのだ。
私はこの水滸伝という本が大好きなのですが、今まで感想をあまり書いてこなかったんですね。だいたい、「面白かった!」「めっちゃ泣いた!」「史進かっこいいい!」みたいな感想になってしまうからという単純な理由で。しかし好きだから何とかして何か残したい。
ということで現在再読中なのも兼ねて、1冊につき1記事分ずつぐらい、本を読んで考えたことを文章に残してみようと思います。(続くかは謎)これも推し活の一貫ということで。うまい感想というよりは今自分が思ってることを残したいと思います。昔の感想を読み返してみると、こういう感想を持ってたんだなと読み返して面白いので。(自分が書いてるから共感できる)
今回は初読の時はあまり考えなかった鮑旭について書きました。読むタイミングごとに気になる登場人物が変わるのだろうなと思います。印象に残る人物というのが1冊に1人は必ずいます。だから今後書いていくのも一人の人にフォーカスして書くんじゃないだろうか。
このように北方謙三の作品はすべての登場人物に背景があり、そこに生きていると感じる文章が特徴です。水滸伝は最低でも108人の仲間がいますが、その一人ひとりにスポットライトがあたるので全員の人生を共に過ごしているような気分になれます。正直このシリーズに手を出したら最後まで読み切るのに50冊以上読まねばなりませんが(水滸伝は19冊)ぜひお手に取ってもらいたい作品です。(推し活)
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